管理人のひとりごと

投資向けマンションに潜む危険性

 はっきり言って区内の単身向けワンルームのマンションは供給過剰状態である。

某賃貸物件検索サイトで文京区内、しかも春日・本郷地区で絞込み、空き物件を検索すると毎日400~500くらいは空き室が表示される。比較的、人の移動が少ない時期

に調べてもこうなのだから、ましてや引越し繁忙期になれば軽く1000を超えるであろう。よって今回のマンション計画が住居のニーズとしてではなく、投資用物件であるのは明らかである。「老後破産したくないなら都市型賃貸マンションのオーナーになりましょう」なんて本を先日書店で見つけた。それだけマンションに投資をする人が増えている時代である。

 周囲との調和を求めず収益性だけに固執する建物には金のためなら周囲への影響を気にしない輩が集まるものであろう。ましてや実際にマンションに住まない海外の投資家にとっては収益性だけが重要である。

 一時の収益性だけに固執した計画は住環境・コミュニティを破壊します。事業者は企業理念を思い出して欲しいと切に願います。

 http://1manken.hatenablog.com/entry/2016/02/10/120000

文京区のマンション事情

 文京区はマンションを建てれば即完売の人気エリアである。

計画地に程近い場所に「パークハウス壱番館」が建っている。建設当時は億ションと呼ばれた。この建設をきっかけに高級マンションブームが始まった。

 開発業者は建てれば売れる事に目をつけ開発を進め、さらに後継者不足で先祖代々受け継いだ土地を手放す世代が増えたこともあり、今もなおマンション建設ラッシュが続いている。明治時代より続いた「菊水湯」もマンションとなることが決まり、先日取り壊された。

 都心部にあり静かで落ち着いていることが評判でファミリー層に人気があり、文京区のブランドは高級嗜好のマンション購入者を引き付けた。「本郷」の名称も魅力的らしく、とても本郷とは呼べないような場所に「本郷」の名をつけたマンションまで登場した。

 マンションブームの影響で少子化に悩まされた文京区も今は区内全ての小学校が定員割れするほど入学希望者が増えてきている。急増する待機児童の解消は喫緊の課題だ。見た目は若い世代が増え、活気を取り戻したように見えるが、世は少子化、単に他地域の人口が減り、人口密度が偏っているだけに過ぎない。

 はっきりいって、かつての「静かで落ち着いた」文京区は今やない。ファミリー向け分譲マンションが飽和状態になれば今回のような賃貸ワンルーム計画が持ち上がり、さらに街の様相を変える事態となる。

 いずれ文京区もかつての面影をなくし、他の区との区別化を図れず、現在の人気を保てなくなっていくだろう。

民泊

 オリンピック開催や円安の影響もあって、海外からの観光客数が日々急上昇しつづけている。ホテルは供給不足となり、宿泊先として「民泊」需要が高まり、ビジネスとしても注目が集まっている。本郷界隈でも部屋を案内するような英語で書かれた怪しげな看板を見かけたことがある。

 国も規制緩和をして民泊を助長するような動きをしているため、アパート・マンション業界だけでなく、脱サラをした個人までが、こぞって民泊をやり始めている。海外観光客向けにネットで民泊を仲介する海外のサイトまでがある状況だ。

 しかし、規制や条例など明確なルール付けができないまま動き出しているため、民泊によるトラブルが後を絶たない。民泊の基準を満たさない違法な物も多々あり、取締りが追いつかない現状だ。

 都市圏の区分所有マンション空き室増加が拍車をかけ、今後、民泊によるトラブルは増え続けることだろう。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/45882

文京区の都市伝説

 「最近建った新築マンション、完売御礼で満室だったのに夜になると半分近くの部屋の灯りが消えたままなんだよね。」

 「マンションの部屋は海外の投資家がおさえていて実際は人が住んでいない。不動産バブル崩壊前に一斉に売りに出す。」

最近、このようなうわさをよく聞きます。

 国内の投資家だけでなく、いまや日本の不動産は海外の投資家からも人気が高い。

御近所さんで土地を所有している方からも、海外から売買のオファーを受けた話を聞いたことがある。

 かつて不動産は価値の変動が少ないので財産としての需要があったのだろうが、今は価格変動を読みやすく、利益のあげやすい投資物として人気あるのだろう。所詮、投資目的として手に入れ自分が住まないのであれば、マンションの所在地には何の愛着や思い入れもなく、金銭的価値が薄れれば容易に売りに出すだろう。ましてや海外の投資家はその傾向が顕著だろう。

 冒頭のうわさが本当だとしたら201X年には文京区の不動産価値は激減し、空き部屋だらけの叩き売りのような価格の中古マンションが至る所に残される。値が下がれば所有者は何とか売りさばこうとして、あらゆる手段を使い、買い手を選ばず手放す。

 文京区もスラム化してしまうのだろうか・・・

マンション紛争はなぜ起きるのか

 正直、今回のマンション計画が立てられるまで、マンション反対運動はまるで他人事であり、まさか自分が反対運動を行うなど考えられなかった。それだけ、建ったときの悪影響はわが身に降りかかってみないと判らないものなのだろう。

 今回の計画を知った時、まず強い違和感を覚えた。説明会で渡された図面は、ただ法律の規制の線に沿って描いただけの幾何学的なものに見えた。そこに周辺環境との調和やデザイン性などまるで感じられず、いかに容積を膨らますかという強い収益追求の姿勢を感じた。そしてマンションに関わる法について調べると一応、この建物が法的には認められている(突き詰めて調べれば違法性が見つかるかもしれないが)ことに愕然とする。

 建築基準法第一条に「最低の基準を定めて」とある。命の危険に伴う事態になるので、これよりひどい物は作らないでくださいよということだ。主に建物の安全性について定められており、大きな震災などある度に耐震に関する基準が改正されてきている。実際、現状の法律で作った建物は東日本大震災規模の震災には対応できず、倒壊のおそれがある。

 さらにこの法はかつてのバブル崩壊時に建設会社が抱えたの不良債権を処理するため、制限がゆるくし、建設側にとって大きなものが様々な場所に「建てやすい」法に改悪されている。

 そして建築基準法は主に構造の安全性に重きを置き、生活環境(生活景観、交通、日照、風害、町並み、コミュニティ)への影響にまでは深く追求されていない。

 紛争となるのマンションは大抵、法で規制されている数値いっぱいまで容積を増やして計画されている。その結果、生活環境を悪化が予想され近隣住民が猛反発する。しかし、事業者側は「合法である」を盾に計画変更には応じない。

 いくつかの紛争が発生し、それを未然に防ぐため紛争を予防するための条例ができ、説明会の実施を義務付けたり、駐輪場の数を決めたり、ごみ捨収集場所にルールを設けたり、などを定めるようにはなってきている。しかし、一番肝心の周辺環境への影響の配慮が「努めなければならない」との表現にて定められていて効力に乏しいため、とても考慮しているとはいえないのが現状だ。

 周辺環境への影響を数値や文章で明文化することは難しく、ましてや人により価値観や感性は様々である。万人が納得するような基準を一律に定めるのは不可能である。そのため「努めなければならない」との表現となる。

 その結果、事業者側は建蔽率、容積率を膨らますかばかり重視し、法的拘束力のない周囲への配慮を念頭に置かずに設計を行う。計画地が商業地域にあるのなら何としてでも店舗面積を広く取ろうとする。

 条例に定められた説明会は本来、事業者の計画を住民に納得させるため行うためだが事業者は法で定められた説明会を義務的に行い、そこで住民側から出た意見を聞いて設計を変更することは想定していない。おそらく、既に土地を売買する時から数値いっぱいの建物を建てることを前提として取引されているためだろう。

 紛争が起きる原因として、現在の建築に関わる法に生活環境の保護への配慮が欠けていること、そして紛争を未然に防止するための条例にある「周囲への配慮」が事業者のモラルに委ねる極めて曖昧なものになっていること、そして一番大きな要因が最低限の基準で定めた法体系にあるといえよう。

 法体系の問題点について、現状に問題を感じた識者達により法律の改正、および建築基本法の制定に向けた活動が行われている。安心して住める街づくりを実現するためにも、一刻も早い法律の改善を願ってやまない。

愉快なお隣さん

 「愉快なお隣さん」とはマンション反対運動に対し反対する人々、つまりは反対派の反対派の人々が反対運動(市民運動)を行っている人々を揶揄するのに使われるインターネット上の造語である。

 反対派の反対派の人々は主にマンション建設にて利益を得る人々で開発業者、建設会社や不動産業界の人々、マンション売買にて利益を得る投資家や金融業関係の人々、そしてなるべく条件のよいマンションを安く買いたい購入希望者、変わりどころではネット右翼と呼ばれる住民運動に対して猛烈な拒否反応をする人々などがいる。

 某マンション情報比較検討サイトの掲示板にしばしば、近隣に計画されているマンション建設に反対する人々の書き込みがあり、それに対して反対派の反対派の方々があらゆる角度からの反論を書き込んで激しい討論となるケースがある。

 その書き込みをいくつか取り上げ「反対派の反対派」の意見を考察してみる。まず、

「(反対運動は)金目的でやっているだけだろう」

比較的よく目にするこの意見、反対運動はボランティア精神で自腹を切って活動しています。解決金を要求する反対運動もかつてはあったようだが、多くは住環境の保護が目的である。費用対効果を考えたら活動なんてできません!

似たような書き込みとして

「近隣住民の主張なんて結局、自分の利益の為」

どうしても反対運動をお金目的としたいらしい。さらに書き込みは

「目いっぱいに建てて価格が下がったほうが買う側からしてみれば都合がよい」と続く

安く買いたいという購入者としての気持ちは理解できるが、価格を決めるのは売る方の判断のはずである。購入者になりすました開発業者側からの書き込みだろうか?

これに似たような書き込みとして

「(反対運動の影響で)設計変更の結果、狭くなって、価格が上がらない方がよい」

というのもあった。売る側だけでなく単なる転売目的で購入する投資家も購入者になりすましていそうだ。

さらに投資目的の購入者と思われる書き込みとして

「どうせ(購入後は)賃貸に出し近隣住民と付き合うことなんてないし」

これに似た、近所付き合いに関する書き込みとして

「住んでから近所付き合いなんてあるのか?住んで周辺から石投げられる分けじゃないし、抗議されるわけじゃないし、住んでしまえばそれで終わりでしょ」

あまりにも卑劣なこの意見、反対運動による売り上げ低下を恐れた業者側が購入希望者になりすまし書き込んだとも思われるが、本当の購入希望者も本音も無いとも言えないだろう。

 このように近隣住民へのなりすまし、購入者へのなりすまし等、立場を偽ることで読むものを翻弄し、誤解を招かせる。反対運動へのマイナスイメージを近隣住民になりすまし書き込めば、運動自体の盛り上がりを阻止できるだろう。

 その究極が「反対運動が起こる場所は土地としての価値がある」といった類の書き込みである。はっきり言って土地の価値との因果関係はまるでなく、単にマンション計画が近隣に無配慮で、軋轢が生じたまま強行されているにすぎない。
 「なりすまし」行為はサイト上禁止となっているが、それを見極めるのは難しいためコメント自体の信憑性は低く、はっきりいって全て真に受けるのはナンセンスである。

しかし、ほとんど無価値とも思えるカキコミの中にも識者の有益な意見がたまに見かけるのでチェックしておく価値はあるだろう。いずれにせよ、己の利害関係のためカキコミをしたい人たちがいることだけは確かである。

 これらの書き込みを読むと金銭的な値打ちでしか物事を捉えられない拝金主義的な思想と隣近所と付き合わなくても生活できてしまう現代のライフスタイルがマンション紛争を招いているともいえる。

 かつてはマンション入居者説明会にて町会への参加を呼びかける傾向があったらしいが、最近は町会の勧誘に行くと門前払いされると聞く。
 マンションを立てる側、そこに住む者が地域との繋がりを大事にする傾向はどんどんと薄れているように思われる。
はたして、このままでよいのだろうか?

 (注:某インターネットサイトの書き込み内容には著作権があるため「書き込み」文例は文意が変わらぬよう表現を変えています。)

文の京都市景観賞

 文京区には「文の京(ふみのみやこ)都市景観賞」なるものがあり、賞の対象として
区内の良好なまち並みや建物、広告物、良い景観をつくるための活動などを表彰している。過去15回実施されていて受賞した建物の多くは大学や記念館などが多くを占めているが商業施設としては講談社本社ビルやパークハウス白山御殿町などが過去受賞をしている。評価基準として「地域にふさわしい景観を創造しているもの」「心のふるさととして身近に親しまれている景観」「周辺景観に配慮し、調和している」となっており、毎年、区民から一般公募された物を景観づくり審議会にて審議のうえ決定される。

(文京区ホームページより引用)

 まずは、建物として区民に上記評価基準の印象を与えなければ選考の対象とはならない。
 文京区は他区に比べ景観づくりに積極的に取り組んでいる。景観法に基づく文京区景観づくり条例の景観計画を実施しており、きめ細やかな景観づくりを推進している。区民の景観に対する意識も他区に比較し、高いと思われる。

 さて、本郷4丁目計画のマンションだが、当ホームページで強く主張しているように、とても文京区景観づくり条例の基準に則ったものとは感じられない。
 施主側もそう感じているのか、区の住環境課には提出された景観シュミレーション図は近隣住民向けの説明会にて何度も提出を求めたのにも関わらず未だに提出されていない。

 ちなみに、本郷4丁目計画のこのマンション、景観計画に基づく区との協議で何度も指導を受けたらしい。しかし、景観条例は建物の高さや規模を決める効力はなく、単なるお願い事に過ぎずないため、いくら条例に背いていても、建設基準法などに抵触していなければ建物の高さや規模を変えることはできないのだ。

 もし、ノーベル賞のパロディ版、イグノーベル賞のように文の京景観破壊賞があるとすれば、このマンションは間違いなく受賞候補となるだろう。
計画中のマンションが周辺環境を考慮したものかどうかは是非とも景観シュミレーション図を取り寄せて皆さんの感性で確かめてほしいと思う。
(ignoble:恥ずべき、不名誉な、不誠実な)

コミニュテイの崩壊

  現代人のライフスタイルは年を追うごとに個人主義へと向かい、近所付き合いを煩わしいものとして省いていく傾向が時代と共に増してきた。なるべく近隣とは関わりあわないよう生活が好まれてきたように感じる。

  都心部ほどその傾向は強く、特に戸建て住宅地域よりマンションが多く立ち並ぶエリアにその傾向が顕著に出ているようだ。

  この風潮は地方都市でも広がりを見せ、大都市だけでなく小中規模の町でも広がりを見せてきている。

「近隣と関わらない生活がしたい」の発想が行き過ぎたものになると「近隣から嫌われようと自分さえ快適な暮らしができればよい」という発想に陥り、「周りに迷惑がかかるようなマンションでも安く手に入ればよい」という発想に繋がるのではないだろうか?

  そんな思想を持つ人が年々増えてきたと言っても過言ではないだろう。

某マンション情報掲示板にもそのような意見の書込みがちらほらと見受けられる。

 個人主義を助長するように宅配などサービス産業は発達し、普段生活する上で近所付き合いなどしなくても何不中無く生活できるようになっている。

しかし、数十年以内に高い確率で訪れると言われている大震災の時はどうだろう?否が応にも近隣との関わりが生じる。

 災害時、自治体や行政の力には限界があり、被害の拡大を防ぐ初期消火や避難所の開設は地域の人たちの協力なくしてはなしえない。

こんな時、普段からコミュニケーションをとらないでいると、被害拡大の要因になることが想定される。

 人間の心理として顔見知りでない人と助け合ったり、協力して困難を克服する行動はとり難く、小規模な火災を見つけても消すことができなかったり、

瓦礫に埋まった人を見つけても力を出し合って助けることもスムーズに行われないと思われる。

 消せるはずの火災は拡大し、救えるべき命を救えず、必要な物資も手に入らくなり混乱と恐怖で人々はパニックに陥るすることだろう。

 顔見知りであれば食料や物資を分け合う気持ちも生まれるが、見ず知らずの人とはそんな感情も芽生えにくく、略奪や暴行、火事場泥棒的な行動の温床ともなるだろう。

「共助」の欠落は本来防げるはずの被害を食い止めることができず、被害の更なる拡大へと繋がる。

 耐震構造や防火対策などのハード面での防災対策で救うことのできる命には限界があり、いざという時に安心・安全に生活するには近隣とのコミニケーションは必須だ。

 本郷4丁目計画の施主である積水ハウスは自社の利益を追求することに固執し、計画地周辺との調和には一切配慮していない。

 近隣に配慮のないマンション計画はコミニュテイの欠落を助長し、災害時の混乱を拡大させる要因となることだろう。

心を失くした資本主義

 今の世の中、何かにつけて「お金」と経済優先の考えに拍車がかかっており、その勢いは止まることを知らない。
しかし、お金だけでは幸せにはなれないことは古来から言われており、経済を優先するあまり大事な物を見落としてはならない。
 長引く景気低迷対策として政府はあらゆる手段で解決を図っているが、それは単なる景気を現す指数の数字を増加させるだけで根本的な解決にはなっていないのでは
ないだろうか?経済的合理性を追求するあまりに何か大事な物を失っている気がしてならない。

 

 本郷4丁目計画のマンション設計や事業者側の姿勢にもそんな傾向が見て取れる。
賃貸向けワンルームマンションは面積あたりの収益性が家族向け分譲物件よりもよいため、いかに多くの部屋数を確保するかが最重要課題なのであろう。
 周辺の環境、景観、周囲に与える影響など、直接収益に結びつかないものはことごとく切り捨てられていき、売買の対象となる「容積」を膨らますことだけに固執する。
その行き着く果てには近隣住民に与える影響だけでなく、そこに住むであろう住民達の利便性までも見落としている気がしてならない。
 地下に設置されたごみ置き場や駐輪場、幹線通り側とは逆向きに配置された出入り口、そして聞くところによると障害者用の経路は一度地下に降りなければならないらしく、部屋数と店舗の面積を稼ぐことと引き換えに住宅として必要なものまで捨ててしまったといっても過言ではないだろう。
計画の問題点として掲げられている項目を解決するには結果として容積の縮小に繋がるため、事業者側は一切譲歩しない。

 設計者は事業主の要望のため、事業者担当者は会社のため、会社は株主のため、と薄々計画に違和感を感じながらも「世の中そんなものだから」と開き直り、
まるで他人事のように計画を進めていく。
株主は決算期の売上だけで企業を評価し優劣を定める。そのため企業側は企業理念よりも「利益率」「売上」の数字を増やす事を意識していき、コンプライアンスなど守っても儲けにつながらないため、時には暴走し、法の解釈を捻じ曲げるような強引な計画を立て、あらゆる手段で数字を上げようとする。
 「数字だけ追い求める傾向」は投資の世界の方が顕著でデイトレードで生計を立てている人などは投資先の企業が何をしているかは関係なく、儲かるかどうかのデータしか意識していないだろう。価格変動のグラフの形だけで投資先を決めている輩もいるぐらいだ。
 さらに「子会社」「分社化」と責任を分散し、グループ企業内でお金を回して収益を上げる経営スタイルにも問題があるだろう。
土地の取得、設計、販売、管理が別会社によって行われるため、一貫した責任感が欠落し、それぞれの分野について他人事の意識が生まれる。結果として自己のセクション
の成功しか念頭になく、引き渡した後は野となれ山となれで、どうなろうとお構いなしとなりがちである。

 三河商人の言葉に「三方良し」の原則がある。「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」
売り手と買い手がともに満足し、また社会貢献もできるのがよい商売であるということである。
始めの2つは満足させても「世間」を良くしようとしている投資家や企業は世の中にどれだけ存在しているだろうか?

 マイナス金利と土地価格上昇、チャイナマネーによる投資に支えられた昨今の都心部におけるマンション建設ラッシュを見ていると行き過ぎた資本主義のモンスターが暴れまわっているようにも感じる。

 もっと想像力を働かせ、自分のした仕事、投資した結果が世の中にどういう結果を及ぼしているかを考えていかなければ、この乱開発により世の中は衰退していくだろう。
今後の人口減少を想像すれば、自ずとどんな街づくりが最適か答えはでるはずだ。そうすれば、持続可能な価値がある街を作ることが可能であろう。
自己の利益、目先の利益しか追求しない行動の末に行き着く果ては、結局自らの首を絞める結果を招いていくことになるだろう。

住民不在の都市計画

 建築紛争はなぜ起こるのか?原因として次の都市計画制度の問題点について語られた一文を紹介したい。
「都市計画とは最終的にその目的にみたように住民の幸福を守るためにあるのであり、そのためには住民を計画に参加させなければならない。
 問題は、その住民はどうなっているかということである。率直にいって、住民は都市計画などほとんど知らないし、関心も無い。
 住宅街にマンションが建つ、あるいは道路が作られるなどという事態が生じて初めて都市計画なるものの存在を知るのであるが、そのとき住民として感じるのは、『都市計画の犯罪性』である。現在日本中で建築紛争が続出している。誰がこんなところにマンションや道路を作ることをきめたのか、
 それにどのような合理性や正当性があるのか、それはどうしたら変更できるのか、などいくら行政に質問しても、何の返答ももらうことができないのが現実である。
 意を決した住民が法的解決を求めて提訴しても、日本の裁判所では、原告適格から始まって、行政の裁量権まで何十のバリケートがめぐらされていて、これを突破するのは並大抵ではない。その結果、日本の市民は、都市計画を知れば知るほど強いニヒリズムに陥っていく。
(中略)率直にいって、国や自治体は市民などいなければいないほど都市計画はうまくいくと考えてきたのである。しかし、市民の存在しない都市計画などは明らかに無益有害である。
 これをどうするか。これへの回答なくして都市計画の必要性や有用性などいくら説いてみても無駄であろう。」
(都市計画法改正「土地総有」の提言,五十嵐敬義 野口和雄 萩原純司 著 pp139-140)

 

 建築紛争はなぜ起こるのか?原因として次の都市計画制度の問題点について語られた一文を紹介したい。

「都市計画とは最終的にその目的にみたように住民の幸福を守るためにあるのであり、そのためには住民を計画に参加させなければならない。
問題は、その住民はどうなっているかということである。率直にいって、住民は都市計画などほとんど知らないし、関心も無い。
住宅街にマンションが建つ、あるいは道路が作られるなどという事態が生じて初めて都市計画なるものの存在を知るのであるが、そのとき住民として
感じるのは、『都市計画の犯罪性』である。現在日本中で建築紛争が続出している。誰がこんなところにマンションや道路を作ることをきめたのか、
それにどのような合理性や正当性があるのか、それはどうしたら変更できるのか、などいくら行政に質問しても、何の返答ももらうことができないのが現実である。
意を決した住民が法的解決を求めて提訴しても、日本の裁判所では、原告適格から始まって、行政の裁量権まで何十のバリケートがめぐらされていて、これを突破
するのは並大抵ではない。その結果、日本の市民は、都市計画を知れば知るほど強いニヒリズムに陥っていく。
(中略)率直にいって、国や自治体は市民などいなければいないほど都市計画はうまくいくと考えてきたのである。しかし、市民の存在しない都市計画などは
明らかに無益有害である。
これをどうするか。これへの回答なくして都市計画の必要性や有用性などいくら説いてみても無駄であろう。」
(都市計画法改正「土地総有」の提言,五十嵐敬義 野口和雄 萩原純司 著 pp139-140

 本来、住民のためのものであるはずの都市計画が機能しておらず、建設現場の周辺住民はおろか、そこに住むであろう住民のためにもならず市場原理だけで突き進んでしまう現状と建築紛争に巻き込まれないと住民にとって不条理な都市計画の制度について気付く事ができないことが適格に述べられている。
 この本には建築と都市計画に関わる法律制定の経緯や他国制度との比較をしながら現状の制度を根本的に変えなければだめだと訴えている。
 著者を始めとした活動により、かつては法の枠組みを超えた改正案を提案し、法案として国会に提出する手前までいったのだが、政権交代もあってか、現在まで議案提出はできていない。

次回は建築と都市計画に関わる制度と政治との関係について考察してみたいと思う。